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[学会発表報告] 2024年11月30日「日本村落研究学会第72回大会」/前野清太朗特任助教(グローバル・レジリエンス部門)
2024年11月30日、前野清太朗特任助教(グローバル・レジリエンス部門)が琉球大学で開催された「日本村落研究学会第72回大会」にて自由報告「統治と共同――初期植民地台湾における「水利組合」の創造」を行いました。
日本村落研究学会ウェブサイト https://jars.smoosy.atlas.jp/ja
報告要旨
近現代台湾における水利史は、日本植民地期(1895 年~1945 年)を境にした水の「公有化」「公
共化」の歴史として理解されている。ただし植民地期において水に与えられた「公」「公共」的な性
格は、少なくとも二段階の読み替え過程をふまえて理解される必要がある。
2020 年、法改正により台湾の農業水利を管轄してきた「農田水利会」が廃止された。これにより1950 年代以来、法令に基づく公法人として水利施設を管理してきた各地の「農田水利会」は、農業部(農林水産省に相当)農田水利署が管轄する行政機関となった。「農田水利会」は一面において耕作者を会員とし、会員から各地の水利小組長・会務委員を選出する「自治」的組織を有していた。一方でそれらの管轄区域は広く複数の県・町村レベルの自治体に広がっていたほか、大量の専任職員を抱え、会員から利用費を徴収する、あるいは政府からの補助金を受給して水利施設の整備と農業用水の分配を担ってもいた。このような「自治」的側面と準行政的な性格を兼ね備えた団体が成立した背景には植民地期の台湾総督府による水利政策が、戦後台湾において多分に継承されたことが背景となっている。戦後の「農田水利会」は1921 年の水利組合令によって組織された「水利組合」の設備・組織と管轄区域を引き継いで成立したものであった。
1920 年代より植民地統治の後期を経て、戦後そして民主化後の現在に至るまで、水は国家的な行
政の延長に結びついた地方行政の一環たる「公共」の対象物であった。ところが、植民地期以前に
おける水は、国家的な行政の延長に結びついた「公共」の対象物ではなかった。新たな水利施設の
開発に際しては、地方の行政官が主導するものは希であり、多様な主体による管理が存在していた
ことが先行研究から明らかとなっている。日本による植民地統治の開始から、1921 年の水利組合令
発布までの20 年以上の期間、台湾の水利施設は「公共埤圳組合」((埤(ひ)とはため池、圳(しゅ
う)とは水路)とよばれる「水利組合」とは別個の小規模な組織を主体とする管理制度がとられて
いた。「公共埤圳組合」は地主・農業者を組合員とする「水利組合」に比べれば非常に「自治」色の
高い組織であった。ところがこのような「自治」色の高い組織は、植民地期以前において必ずしも
一般的であったわけではなかった。しばしば水利施設の所有者による経営的な管理が混在をしてい
た。
本報告では、まず①台湾総督府による植民地統治初期の調査文書を利用し、これまで主に利用さ
れてきた漢文資料では部分的にしか明確ではなかった各地の水利管理の実態を明らかとしたい。そ
して②調査文書に関連する付属文書から、従来の水利がもった私的な性格を一見「自治」色の高い
「公共埤圳組合」という段階を経ることで解消することがめざされていたことを示したい。